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酒と車と御朱印と

「毎日更新」心願成就へ向け飲んで走ってひたすら祈る!果たして奇跡は起きるか!

【御朱印】妙法寺は都会の喧騒から切り離された異空間だった

大町・材木座エリアのお参りで妙本寺・八雲神社・安養院とまわり、いよいよ日蓮宗にとって重要な場所である松葉谷(まつばがやつ)に入りました。最初にお参りするのは妙法寺です。

 

日蓮は現在の千葉県鴨川市で生まれ11歳で地元の清澄寺に入門しました。その後比叡山薬師寺高野山、東寺といった高名な寺院で学んで清澄寺に帰り、32歳の時鎌倉入りして辻説法を開始します。その時生活の拠点としたのが松葉谷でした。

日蓮はこの地で「立正安国論」を執筆して鎌倉幕府5代執権の北条時頼に提出します。その内容がその内容が当時起こっていた地震、異常気象、疫病、飢餓は、法然を始めとする念仏教や禅教などの邪教に起因するものとし、幕府へ正法を法華経とするよう促す内容であったため、その約1ヶ月後の827日に他宗の僧ら数千人によって草庵が焼き討ちされました。これが世に言う「松葉ヶ谷法難」で、日蓮は危ういところを脱出して現在の下総中山に避難しました。

松葉谷の日蓮宗の寺院である妙法寺安国論寺長勝寺はいずれも松葉谷草庵跡を称していてとても結論は出そうにありません。

後に悲劇の親王として鎌倉宮に祀られた護良親王の子である日叡が父母の供養と日蓮の遺跡を守るためにこの地に寺院を建てました。

 

右側に小さく見える門が総門です。

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新緑に囲まれた参道を進みます。

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1818年から1830年までの文政年間に肥後藩主である細川家が幼くして亡くなった娘の菩提を弔うために建てた本堂です。

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江戸時代、第11代将軍の家斉はよく妙法寺にお参りし、その他徳川御三家肥後藩細川家などの帰依を受けていました。明治中期まで境内には将軍御成の間が置かれていたといいます。

 

緑の中に建つ大覚殿です。中央に釈尊、左に妙法稲荷大明神、右に加藤清正の尊像が安置されています。

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境内は様々な花が美しく咲き誇っていました。

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石段の上に建つ朱塗りの仁王門です。

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仁王門の奥には苔に覆われた石段が続いています。杉本寺の石段が思い出されます。

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左手の化粧窟には日蓮の石像が安置されています。

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1812年に水戸徳川家から寄進された法華堂です。

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更に石段を上ると日蓮の草庵があったとされる碑がありました。

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御朱印は本堂左手の寺務所で頂けます。「御朱印所」という表記は全くありませんが、快く受けて下さいました。

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出来上がるのを待つ間ベンチに腰を下ろしていましたが、都会の喧騒から完全に切り離され、鳥の鳴き声しか聞こえない全くの別世界にいるようでした。近くを県道311号線やJRの横須賀線が通っているのですが、そのような気配は全く感じられませんでした。

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日蓮の精神を偲ばせる大変に力強い御朱印を頂きました。

 

◆同じ大町地区のツツジが美しい安養院の記事

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◆同じく「松葉ヶ谷草庵跡地」を争う安国論寺の記事

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最後までお読みいただきありがとうございます。