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酒と車と御朱印と

「毎日更新」心願成就へ向け飲んで走ってひたすら祈る!果たして奇跡は起きるか!

【御朱印】葛原岡神社に祀られた日野俊基は燃える男後醍醐天皇に油を注ぎ続けた

以前にもご紹介しました銭洗弁財天は源氏山公園へと昇っていく急な坂道の途中にありますが、弁財天へ向かうトンネルの入り口の反対側に「鎌倉の縁結び 葛原岡神社」と書いた手製の看板が置かれていました。銭洗弁財天のお参りを終えてトンネルから出てくると必然的に正面にあります。源氏山のてっぺんにある葛原岡神社に最初にお参りしたきっかけはこの看板でした。

 葛原岡神社は鎌倉時代末期の廷臣である日野俊基を祀った神社です。日野俊基後醍醐天皇に取り立てられてその秘書的な立場となり、再三にわたり鎌倉幕府討幕の謀議に加わりました。


当時の皇族の中では持明院派、大覚寺派と言う二つの系統が激しく帝位を争っていました。この争いは鎌倉幕府にまで持ち込まれ、扱いに窮した幕府が朝廷に示した調停案が「両統迭立案」なるものです。つまり10年目ごとに持明院派、大覚寺派の両派からかわりばんこに皇太子を立て、帝位を交代していくというものでした。この流れの中で即位したのが「建武の新政」で知られた後醍醐天皇です。
幼少の天皇が続いてきた中で、21歳で皇太子となり31歳で帝位についた後醍醐天皇は十分に思慮分別のついた壮年天皇であったため、それまでの慣例に一切とらわれない英邁豪胆な性格だったと言います。自分を中継ぎの天皇として扱おうとした幕府に反感を持ち、当然のことながらたった10年で帝位を譲るという約束も無視しました。燃えるような性格だった後醍醐天皇に油を注ぐ役割が日野俊基だったのです。


この流れの中で後醍醐天皇は再三にわたり討幕を企てますが、ことごとく事前に発覚しました。一度目の正中の変では俊基は鎌倉に連行されたもの赦免され、後醍醐天皇もお咎めなしとなります。しかし二度目の元弘の乱で俊基は斬刑、後醍醐天皇隠岐島に流されました。


後に明治天皇日野俊基明治維新の先駆けであると高く評価され、最期の地である葛原岡に俊基を御祭神とした神社を創建されたのですが、それが現在の葛原岡神社です。

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杯を石に当てて砕き、悪いものを祓う魔去る石です。

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良縁の神様である大黒様をお祀りしている縁結び石です。男石と女石が並んでいます。お守りを買うと五円玉のついた赤い糸がもらえます。

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本殿です。

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本殿の脇に日野俊基終焉の地碑が建てられています。当時この地は処刑場だったようです。

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俊基は「建武の新政」に道を開いたという事で開運の神様、また優れた文章家であったことから学問の神様とされてきましたが、最近は縁結び石の大黒様の関係で縁結びの神様として知られています。


近くにある富士山のビューポイントからはちょうどいい感じに富士が見えました。

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御朱印は昨年7月にお参りした際に頂きました。

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大変にシンプルな御朱印を頂きました。

 

◆葛原岡神社に向かう途中にある銭洗弁財天の記事

minamimachida0706.hatenablog.com

◆同様に後醍醐天皇に尽くしたのに最後に嫌われた護良親王の記事

 

minamimachida0706.hatenablog.com